昭和20年5月29日の横浜大空襲で自宅にいた母と3人の弟が死んだ。母のお腹には生まれてくる子供もいた。 生き残った父と兄弟で母と弟たちの遺体を荼毘にふし、山形県西田川郡温海町大字早田の代々の漁業を営む本家に皆で納骨に行った。 納骨も終わって、親族一同に別れの挨拶をしている時、本家の当主である父の兄から、跡取りの長男が戦地にいったままなので、おまえはここで残って家業を手伝ってくれ、と頼まれた。 そんなわけで私は漁師にさせられてしまった。 都会で育った私にとって田舎の生活は、見るのも聞くのも経験のないことだらけで戸惑うことばかりであった。まず言葉がまったく分からない。思い出すままに記すと、父は「ダダ」、母は「アバ」、長男は「アニア」、弟は「オジ」、嫁は「アネ」、灰は「アク」、体の具合が悪いは「アンバイ悪い」、何かくださいは「ヘレ」という。こんな具合だから、真似して使っても発音が悪いせいか、てんで通じず、いつも笑われてしまっていた。 早田というところは、日本海特有の平地の少ない土地で、米は部落だけで食べる分も取れず生活は大変だったが、春夏秋冬頑張って働いていればなんとかなった。 海山の自然な食材を取ってよい日が口食け(アケ)といって決まっている。そんな時に一所懸命働けば生活は貧しくとも大丈夫なところがあった。 はんこたんなの女性たちは実によく働いた。その懸命に働く姿には深く深く頭が下がるばかりだった。戦時中は夜の海に出漁することはできなかったが、終戦後は一挙に夜の海に出た。イカ釣りやイワシ流しに漁師たちは勇み立った。イカは取れ過ぎてもスルメにすればよかったが、イワシは取り過ぎると買い手がつかず、油をしぼった後は肥料にするしかなかった。それでも日中は魚のカレー網に、カニ網に、ハエ縄魚にと忙しく3時間位しか寝ない時が多かった。 漁の中に大望(だいぼう)網というのがあった。それは定置網を大規模にしたもので、秋の終わり頃から冬にかけて、海岸からあまり遠くないところで、鮭が産卵のために河を遡上する前に取る網だが、漁は手綱船と網船との二手に分かれて仕掛けに行く。手綱船は網を海岸近くまで張る。その網にぶつかった魚は、沖の方で待機している網船の網に入るという仕掛けである。 昔は船の上に櫓を組み見張りをつけて、一匹でも魚が入ると、逃げないうちに網を引き上げたという。網に入った魚が逃げないように網の入り口に筌(うけ)に似た仕掛けのヒントを考え出したのが、本家の祖父の金蔵だったといわれている。その祖父の金蔵が愛用していたのが、ドイツ製の一種の気圧計だった。祖父はその器械の針の目盛りを読み、今日は凪だ、今日はダシ(山の方から海に向かって吹く風で海が荒れる)だと予報していたともいう。 作品の制作にあたってはこうした経験と体験の表現があることはもちろんである。しかし、その奥底には横浜の大空襲の焼け跡で目の当たりにした母と3人の弟の真っ黒に焼け爛れた遺体がある。手足の先は骨まで焼けて無く、母の遺体の両側には3人の弟たちが縋るように寄り添っていた。母の首は爆風で飛んだのか千切れていて、首を探すのにまる1日半もかかった。 このような体験から何とか「死の絵」を描きたくて平和展や日本美術のアンパンに向かって作品を描いた。しかしながら、上條明吉先生のような作品を心掛けたが、努力しても頑張ってもいつも挫折してしまった。涙脆い私は描いているうちに、母や弟達の姿を思い出して涙が止まらなくなるからだ。なんとか最後まで描き終えたのは100号1枚だけである。 戦後60年、毎年、広島や長崎の原爆記念日の慰霊祭だけが大々的にマスコミによって報道されるが、戦争の犠牲になって死んだ人は原爆の犠牲者だけではないことも忘れないで欲しいと思う。 平和で好きな絵がいつまでも描けることを心から願ってやまない。 (本間龍松画集「はんこたんなの世界」より) 作家メモ ―絵画とは
1966年6月 龍松36歳 眼で見る事に依って、自己の生命の中に共振が起きる時、そのエネルギーを平面の上に定着させようとする根気の要る作業を『絵を描く』と云う。 ある視覚的記憶が、時間に依って浄化され、決定的に動かし難い実在感にまで高められ、永遠化される辛抱強い行為を『制作の行為』と云う。 ある視覚的想像を現実に具体化して、一つの原形をそこに作り出し、それを見る事に依って、人々は無数の視覚的想像の世界へ遊ぶ事の出来る入り口の役目をするものを『絵画』と云う。 以上、いろいろひねった云い方をしてみましたが、自由な表現により各自各様の画論あり画風ありで、結局は原作と云われるものを創作する事が何より大切な事でしょう。ただ、この自由な表現と云う事が言うは易く実は大変難しい問題で、自分自身の心が真に自由で一切の対象物に捉われない境地にいないと出来ない事なのです。そのためには、描こうとする具象物をよく見(写生)、よく感じ(写意)、すべて自由にデフォルメ出来る所まで肝に入れてしまう必要があります。消化し、なおかつ表現し終わる迄の、その辛抱が大変な修業でもあるのです。 (龍松メモより)
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