本間 敏治
 
記 録 ・ ド キ ュ メ ン ト

わ・す・れ・な・い
東日本大震災 155日間の記録

 2011年3月11日、東日本大震災。
 何かをしたい、あるいは何かを伝えたいと思いつつ、 いざ具体的に何をしたらいいのか…日常の生活に埋没して未だに何も出来ないでいる自分に気付く。そんな、私と同じような思いをしている人は案外多いのではないだろうか。 2011年8月11日(金) 、フジテレビ金曜プレステージ2時間枠で「わ・す・れ・な・い〜東日本大震災155日の記録〜」という番組を見た。 ”これだ!”と思った。所詮、個人の力には限界がある。デジタル化の世の中、ここは、メディアの総合力を活用させてもらおうと思った。
 30年後も生きて、この番組の録画、そして文体にしたこのコンテンツを東日本大震災を知らない世代に伝えたい、そして30年後の日本が平和な国家のままであって欲しいと願う。

 
 
東日本大震災155日間の記録
●はじめに (文:本間)
 2011年3月11日、東日本大震災。
 何かをしたい、あるいは何かを伝えたいと思いつつ、 いざ具体的に何をしたらいいのか…日常の生活に埋没して未だに何も出来ないでいる自分に気付く。
 そんな、私と同じような思いをしている人は案外多いのではないだろうか。
 私は、自分でも体験した帰宅困難を題材にした短編小説をまとめた。その中で、30年後(85歳になる)も生きて今回の大震災を後世に伝えたいとの思いを述べた。しかし、帰宅困難自体はこの未曾有の大震災のほんの一部でしかなく、それ以外の、大津波、原発事故等多くの惨劇を実際に体験していない自分に東日本大震災の影響度の大きさを伝えることは到底不可能だとの現実に気付かされ、その悔しさに、人知れず心の中で葛藤していた。1000年に一度とのこの大災害の全貌をなんとか伝えられないかと。
 そんな折、2011年8月11日(金) 、フジテレビ金曜プレステージ2時間枠で「わ・す・れ・な・い〜東日本大震災155日の記録〜」という番組を見た。これまで報道されてきた断片的な情報を時間軸、体系的によく整理されているほか、知らない事実なども織り込まれ、正直、改めて衝撃を受けた。
 “これだ!”と思った。所詮、個人の力には限界がある。デジタル化の世の中、ここは、メディアの総合力を活用させてもらおうと思った。自己顕示欲強い性格ゆえ自分の主観も入れようかなとも考えたが、それは番組全体の構成、コンセプトに良い影響は与えっこないと自省し、番組の音声そのものを忠実になぞることとした。結局、それが、起きた大災害の真実を残すことになると思ったからだ。
 2時間番組の録音テープ起しは、正直、かなりの労力を要した。また、映像が命のテレビ番組を字体で果たしてどこまで再現、そのインパクトの強さを伝えられるかとの疑問も当然あった。しかし、録音テープ起こしを終えた今、衝撃度全てを伝えられないまでも、字体だけでも十分にインパクトの大きさは伝えられると確信した。
 サラリーマンで平日多忙にしている身、いつ形にできるか定かではないが、映像は、今後、デジタルカメラでファイル化して少しずつ字体に付け加えていこうと考えている。が、今回は、東日本大震災6ヵ月目の今日(2011年9月11日)を機に、取り急ぎ文体のみをHPに上梓した。
 30年後も生きて、この番組の録画、そして文体にしたこのコンテンツを東日本大震災を知らない世代に伝えたい、そして30年後の日本が平和な国家のままであって欲しいと願う。

 ●2011年8月11日(金) PM9:00からPM10:52
 ●フジテレビ金曜プレステージ「わ・す・れ・な・い〜東日本大震災155日の記録〜」
 ●3月11日の全容を未公開映像と証言から検証。
 ●19台のカメラが捕らえた知られざる津波の映像、巨大堤防の盲点、原発危機の真実
 …忘れないための記録。

  
 2011年8月7日、岩手県宮古市。
 今年の夏は、特別な夏です。

  「気持ちいいですね」
 16歳、山根りんさん。3月11日、母を亡くしました。
 
 「いなくなってから言うのもあれだけど、ちゃんとお礼を言いたかったし、暇な時には友達と遊ぶのではなくて、お母さんと一緒に買い物とか、そういう普通のことをしとけばよかったなって」
 
 失って、分かること。
 松明かし。火を炊いて、母を迎えます。5ヶ月が経ちました。
 
 「ほんと、最初の時は人に関わるのも嫌だったから。けど、きちっと向き合っていきたいなって思うからこういう事があったっていう事を伝えていかなきゃならないと思うし、生きているんだから」
 
 私たちに出来ること、あの日を忘れない。
 
 ●宮古を襲った74分間の大津波
 
 2011年3月11日、東日本大震災を映像で検証します。
 りんさんが母を亡くした宮古の大津波。それは人々にどう襲いかかったのか。新たに入手した映像を時間の経過に沿ってつないだ時、甚大な被害のいくつかもの意外な理由が見えてきました。辛く悲しい映像ですが、この国に生きる私たちには学ぶべきことがあります。津波の映像が続きます。強いストレスを感じた場合は、視聴を継続しないで下さい。
 宮古の津波、74分間の記録です。
 
 岩手県宮古市、震災による死者行方不明者合わせて544人(8月11日現在)を数えた街だ。
 津波の全容をあらゆる角度から検証するため、カメラ19台分の映像を入手した。
 
 3月11日 14:47 宮古市街地
 午後2時47分、 映像は地震発生から1分後、激しい揺れの最中にある街の様子を記録している。
 (記者)
 「不安で外に飛び出す人たちもいます」
 
 3月11日 15:07 宮古市光岸地
 3時7分 、宮古湾を見下ろす高台に人々が避難していた。
 (防災無線)
 「ただ今、宮古市では約20センチの津波が観測されています」
 
 最初に観測された津波は、わずか20センチ。人々が安堵したこの時、異変が始まっていた。
 (撮影者)
 「閉伊川の水位がかなり落ちています。かなり(水が)引いてきました」
 
 宮古湾から水が引いていた。急激な引き波、これが巨大津波の静かな予兆だった。宮古市北部の田老地区。 何度も津波に襲われ、高さ10メートルの堤防が築かれた。津波は太平洋に面したこの街を先ず襲った。
 
 3月11日 15:21 宮古市田老地区
 3時21分、変わらぬ様子で車が行き交う道路の向こうで、防潮林にぶち当たった波が水しぶきを上げる。その直後、津波は堤防を乗り越え、防潮林をなぎ倒し向かってきた。
 
 (撮影者) 小林義一さん(76)。
 「この堤防で大丈夫だと思った。まさか、この道路も超えるとは思わんもんね。地獄だね。波はすごいね、本当」
 
 日本一とも言われたこの巨大な堤防を越えるなど誰もが思ってもみなかった。
 堤防を越えた津波は速さを増し、10秒足らずで100メートル先の民家を呑み込んだ。その2分後には、風光明媚な景勝地として名高い蛸の浜港を津波が襲う。
 
 3月11日 15:23 宮古市蛸の浜
 始まりは、澄みきったブルーの水の盛り上がりだった。まるでスロモーションのように波が岩に打ち付けた。
 津波の高さはどの位だったのか。波の痕跡を頼りに測量したところ、20メートルを超えていた。この巨大な津波が田老地区からほんのわずか遅れて中心部の宮古湾に襲いかかろうとしていた。
 
 3月11日 15:18 宮古市光岸地
 湾の入口宮古港の映像。カメラは、3時18分から海の異変を捉えていた。わずか3分前まで引き波によって低くなっていた水位が急上昇を始める。
 (記者)
 「ものすごい勢いで水が増えています」
 その3分後、
 
 3月11日 15:21 宮古市光岸地
 「白い牙を剥いて、もの凄い勢いで津波が押し寄せています。あーっ!全てが流されます。あーっ!宮古港の市場が…恐怖すら感じます。わぁー!全てが流されます。あっという間に目の前は海になってしまいました。わぁー!こちらにも津波が押し寄せています」
 
 港が壊れていく。この様子を対岸から捉えていたカメラがあった。湾の入口を見渡せる海上保安庁の庁舎ビル。
 
 3月11日 15:21 宮古港合同庁舎
 地上3階、7メートルの建物から撮影しているせいかその目は対岸の参事に奪われている。だが、その足元で、
 「ウワーッ、来た来た!」
 海面が一気に盛り上がり、庁舎を襲う。第一波は、かろうじて2階の屋根で停まった。しかし、そのわずか数秒後、
 「屋上!屋上!」
 「屋上へ行きましょう!」
 「大至急、避難して下さい!」
 屋上へ上がると、辺り一面はすでに海と化していた。初めて海面の隆起を確認してからわずか1分27秒。海保のカメラはその後対岸の住宅街を映し出している。そこから上がった茶色の煙り。これは、一体何なのか。5メートルの堤防に守られた対岸の住宅街。そこから撮影された映像に答えがあった。津波が港を呑み込もうとしていた3時22分、住宅街はまだ浸水していない。堤防が津波を食い止めていた。
 (撮影者)
 「船が流されています」
 (住民)
 「ちょっと堤防越えたよ、水が…」
 「堤防を超えた!」
 しかし、わずかに津波が堤防を越えると、
 (住民)
 「堤防を超えた、堤防!」
 堰を切ったように一気に街に流れ込んできた。
 (撮影者)
 「堤防を超えましたよ!」
 一瞬で水びだしになる街を車が逃げまどう。画面右下にはその光景に呆然とする人々が映し出されている。
 「まだ揺れています」
 その時左の家からあの茶色の煙りが。それは住宅が倒壊する時に舞い上がった粉塵だった。家々が瓦礫と化していく。津波が堤防を越えてからわずか1分40秒だった。しかし、画面右下に写っていた人々は、なぜこの時点まで津波に気が付かなかったのか。その内の一人から貴重な証言が得られた。
 
 畠山 実さん(30)
 「全く、静かだったというか、津波だったら何か音が聞こえるような感じがしますけど」
 Q「津波の警報は聞こえましたか?」
 「最初、(防災無線の)6mっていうのも自分の耳では聞き取れなくて、他の人がさっき3mとか何mとか言ってたけど」
 津波は意外にも堤防を越える瞬間までは静かだった。これが、彼らの判断を遅らせた。映像には、津波に気付くのが遅れ、瓦礫の中を流された男性が写っている。
 (住民)
 「おーい!大丈夫か?」
 「上がれねえ!足がはまって上がれねえ」
 この男性の名前は鳥居義文(54)さん。この時、周囲の瓦礫が浮いていて這い上がれなかったと言う。
 鳥居さんの自宅は、堤防が目の前だった。そこから一気に流され、瓦礫とともに押しやられた。自らは九死に一生を得たが、一緒にいた母親は助からなかった。鳥居さんもまた津波の音に気付かなかったと言う。様子を見に表に出た時、聞いた音は、
 
 鳥居 義文(54)さん
 「ササササという、聞いたことがないような音がしたんですよ。たぶん、波がコンクリートを擦る音でしょうね、波が。ぱっと見たらもう水が(堤防の上から)出ていたんですよ。見えていたんですよ、水が」
 水を目にした瞬間、堤防との距離はわずか20メートル、為すすべがなかった。堤防は津波の音を遮っていただけではなかった。
 鳥居義文(54)さん
 「ここの人たちは、ほれ、波が見えねえから分からないんですよ。見えていれば分かる。上の人は分かったんだけど」
 高台からは見える海岸も鳥居さんのいた場所からは見ることが出来ない。確かに堤防は浸水を遅らせ、避難の時間を稼いでくれた。が同時に、大津波を隠し、決壊と同時に街を呑み込む諸刃の剣でもあったのだ。
 津波は次に市街地を流れる川を遡上する。その様子を市役所の職員が撮影している。
 
 3月11日 15:23 宮古市役所
 (市職員)
 「早く逃げろ!そっちじゃねえ、市役所に来ーい!」
 港が津波に呑まれた2分後、
 (市職員)
 「おおー!わぁー!」
 「超えた?超えた?」
 「防波堤超えた」
 「わぁー!俺の車、終わった」
 ここでも直前まで津波に気付かず歩く人や自転車で走る人などが何人もいたと言う。
 (市職員)
 「終わった。全てが終わった…」
 「何、これ?さっきの人は?…さっきの人は?」
 
 3月11日 15:29 宮古市役所
 
 津波が堤防を越えてから5分30秒。市役所の周囲は、水深6メートルの海となっていた。
 
 津波は、次第に湾の奥へと進んでいく。この時、津波のあるメカニズムが多くの人の命を奪った。
 
 3月11日 15:25 宮古市高浜
 3時25分。
 「わぁー!」
 「おおー!」
 堤防を超えた津波が、一気に住宅街になだれ込む。
 (撮影者)
 「うわ〜 すごい…」
 と、その津波の中に一台の白い車が。だがこの時、撮影者はその車に気付いていない。再びカメラを向けた時、第一波を乗り切った車がUターンする姿に気付くが、またも津波に呑まれ、
 (撮影者)
 「車が…」
 大量の海水が怒涛のように押し寄せ、家屋を破壊していく。すると、いつの間にかあの白い車はいなくなっていた。
 
 撮影者 岩間大輝さん(28)
 「車は波に耐えた後、あっちの道路の方に走って行きました」
 確かに白い車が波に呑まれながらかろうじて走り去る姿が写っている。
 しかし、津波が最初に堤防を越えた2分後、最大級の津波が到達する。
 
 3月11日 15:27 宮古市高浜
 (住民)
 「わぁー!」
 「ほら、来たぞ!」
 もはや水位は完全に堤防の高さを越えていた。あの白い車はどこへ?その後を追った。
 
 「こんにちは、お願いします」
 聞き込みを重ね、車の持ち主にたどり着いた。三浦幸子さん<仮名>(43)さん。その腕には、幼い娘(楓(かえで)ちゃん3歳)が抱かれていた。驚いたことにあの日車の助手席にこの子を乗せていたと言う。
 
 三浦幸子さん<仮名>(43)
 「まさか、自分がそれこそ津波に襲われるとは思わなかったので、震えてましたね、もう身体から足から震えていましたね」
 いまだに津波に呑まれる夢を見るという。その恐怖は3歳の楓(かえで)ちゃんにも刻まれていた。
 「今になって、津波怖いねとか、テレビを見ていても見るなとかって、たまに泣いたりするんで…」
 それでも自分の経験が子どもたちに伝えられのならと、三浦さんは取材に応じてくれた。
 三浦さん親子が津波に遭遇したのは,隣町にある実家からの帰り道。全く津波に気付かなかったと言う。
 
 三浦幸子さん<仮名>(43)
 「信号で止まるわけでもなく、また止められるわけでもなかったので、車の流れに沿って行ったんですけど…」
 Q「防災の音は聞こえなかったのですか」
 「車の中にいたので、聞こえなかったですね。」
 警報や消防の避難誘導にも出合わず、車の中は危険を知らせる様々な音を遮った。そして、堤防が海の様子を隠した。そんな中、津波は突然襲ってきた。慌てて車をUターンさせるが、そのさなか波に呑まれた。
 
 三浦幸子さん<仮名>(43)
 「波に流されましたけど、ガードレールが後ろにあったので、それで止まったような感じですかね」
 その言葉通り、車は波に押されるが、ガードレールにぶつかり落下を免れている。なんとか津波をやり過ごし、後ろから来る波に追われるように車を走らせた。たどり着いたのはわずかな高台。しかしその時、
 「こっちから来た波に押されて…そこの電信柱に」
 またも津波に流され、電柱にぶつかって止まった。
 付近の住民がその瞬間を捉えていた。この時三浦さんは、追いかけられた後ろからではなく、前から来た波に襲われたと言う。三浦さんは車を捨て、娘を抱え必死で更なる高台へと走った。そこでようやく津波を逃れた。
 
 三浦幸子さん<仮名>(43)
 「助かったっていう感じですよね。それこそ(車の)ガラスが割れなかったりとかガードレールにぶつかったりとか、まあそれが良かったんだと思います。運が良かったのか」
 しかし何故、後ろから迫っていたはずの津波が前から押し寄せたのか。その答えを湾のもっとも奥にあった2台のカメラが同時に捉えていた。その一つ、水門の上。地上20メートルに設置された津波の監視カメラ。
 
 3月11日 15:25 宮古市津軽石
 3時25分。川へ入ってきた津波は、後から続く津波によりみるみる水かさを増し、画面左、高さ5メートルはある建物を簡単に押し流していく。
 4分15秒後、水位は水門を越えおよそ10メートルに達した。
 巨大化した津波が垂直にぶつかるこのエリア、その破壊力を捉えた映像がこれだ。
  3月11日 15:26 宮古市赤前
 「ウオーッ!」
 逃げ場を失った海水が8.5メートルの堤防を越え、まるで滝のように住宅地になだれ込む津波。
 「ワアー!」
 絶え間なく続く水の流入に住宅が軽々と流されていく。
 「アレー!」
 「ワアー!」
 この破壊力は、津波が宮古湾の最も奥に到達した時の真実。湾の奥で町の全てを奪い去った波。しかし、これで終わりではなかった。あの日、水門の監視カメラを操作していた消防団員の長洞さんは、映像のある瞬間に目を留めたと言う。
 
 (撮影者)長洞利弘さん(53)
 「水門にぶつかった波がちょうど監視カメラの下の所で立ち上がって、それが跳ね返ってきたという様子が映像には写っていました」
 跳ね返る津波。もう一度水門の映像を見てみよう。映し出されていたのは、あるメカニズム。そこに津波の知られざる姿があった。
 
 湾の奥で破壊力を増す津波。そのもう一つのメカニズムをカメラが捉えていた。先ず、沖合いから真っ直ぐ流れ込む津波に他の場所から逃げ場を求めた流れが合流し高さを増していく。波が跳ね返えようとする時、その水位はかなり高い。細長い湾の奥は次から次へと水が流れ込むため、押し寄せた波をはるかに越える高さとなって跳ね返っていくのだ。これこそ巨大な跳ね返る津波を生むメカニズム。高台に逃れたあの三浦さん親子を前から襲ったのも、この跳ね返る津波だった。三浦さんを最初に呑み込んだのは、湾の奥に向かっていく津波。しかし8分後、先程とは逆方向に高さを増した波が道路に押し寄せている。この跳ね返った波は、水門からおよそ500メートルも離れた場所に避難していた親子をも襲った。それが、この場所で母を失った山根りんさんだった。あの日、りんさんは母と二人、この高台を逃げていた。
 
 山根りんさ(16)
 「お母さんの後ろをついて歩いていたんですよ。そうしたら、音もなくというか、一瞬だったのでよく分からないんですが、気付いたら波の中にいましたね」
 Q「じゃ、見ていたのは」
 「こっちの方向ですね。お母さんの後ろ姿を見ていましたから」
 Q「どこから波は来たんでしょう」
 「後ろですかね。大きくなったのがまた来て」
 りんさんは津波が来るはずの海側を警戒していた。しかし、ふと気付けば水門側から来る波に呑まれていた。水深10メートルの冷たい水の中、母を探すことなど出来なかった。りんさんは50メートルほど離れたビルまで自力で泳ぎ着き、一人助かった。
 
 山根りんさ(16)
 「一番安全な所に逃げるのが大事だし、誰かのこと心配だったら心配してもいいけど、先ずは自分のことをよく考えて欲しいと思いますね」
 Q「自分の経験を通して、こんなこと知って欲しいことあります?」
 「まあ、親を大事にして欲しいですね。その日の前の日、私、親と喧嘩しているんですよ。エヘヘヘ、行きたい学校があったり、まあ進路のこととかいろんなことがあってぶつかってしてりしてたんですけど、結局、最終的には何も言えなかったと思ったので、やっぱり言いたいことがあるんだったら言った方がいいなって」
 
 人は、人の記憶を生かすことが出来る。それがどんなに辛いものであっても。あの日から今日まで、決して忘れてはならない震災の記録です。
 
 小倉智昭(キャスター)
 「あの震災からきょうで155日が経ちました。3月11日あの日、私は東京青山で震災に遭遇しました。青山通りに逃げ出した人々に高層ビルのガラスが振ってくるのではないかと恐怖に駆られたのを覚えています。そして数日後、私は被災地を歩いてみました。想像を絶するような光景が続いていました。そして今日まで起きた出来事も信じられないことの連続でした。3.11を境に私たちを取り巻いている世界が一変したと言えるかもしれません。でもあの瞬間、そこまでの事態を想像した人はいたんでしょうか。そこで今日は、敢えて時計の針を巻き戻してみようかと思います。あの時のことを刻みつけ、二度と忘れないためです」
 
 安藤優子(キャスター)
 「私は、あの地震が起こった直後から報道を始めました。しかし、その時私が感じたのは、いったい今、何がどれほどの規模でどんな災害が起きているのかという全貌が掴めないもどかしさでした。今回私たちは新たに独自に映像を入手しました。その震災を記録した映像を改めてつぶさに時系列に沿って正確に検証してきました。そうした時始めてこの巨大な震災の全貌が見えてきたのです。皆さんにとっては二度と見たくない光景があるかもしれません。でも、日本はいつまたあのような大震災に襲われるかもしれません。その時どうすればよいのか。そうした巨大災害に備えるための教訓とする為にもぜひ皆様にこの番組をご覧いただきたいと、そう思っております」
 
 2011年3月11日
 
 人々は変わらぬ日常を生きていました。この後起きることを知る由もなかった。その時は近づいていました。
 
 14時46分18秒01 三陸沖130km地震発生 マグニチュード9.0
 
 14:46:30 岩手・大船渡
 地震発生から12秒後、揺れが最初に到達したのは、岩手県大船渡市でした。その4秒後には仙台へ。
 
 14:46:34 仙台市
 揺れは、長く激しいものでした。頭上のシャンデリアの落下を恐れて部屋の外へ避難する人。
 「長い」
 「長いね」
 1分以上が経過しても揺れは収まる気配を見せません。それどころか、揺れ始めてからおよそ1分半、あの地震はそこからさらに激しさを増したのです。
 「停電だ!」
 「長えな」
 「ああゎー!」
 立っていることもままならない、強烈な地震。その揺れは、東日本全域へと広がっていきました。
 
 14:46:34 福島・南相馬市
 福島市南相馬市では、地震発生後の16秒後に、
 
 14:46:39 岩手県奥州市
 21秒後には岩手県奥州市が。
 
 14:46:44 福島市
 「ああゎー、凄い揺れだ」
 「わあぁー、怖い!」
 「ああゎー、凄い!」
 「ああゎー、土砂崩れ!あっ!大規模だ!」
 「逃げて!」
 「乗用車とトラックが…」
 「危ないよ」
 
 14:46:46 山形市
 地震発生から28秒後 14:46:46
 山形市に到達したのは、28秒後のことでした。
 
 東京・台場
 東北地方を襲った激震の情報は、東京お台場のフジテレビへ即座に伝わりました。しかしこの瞬間、東京に揺れは伝わっていません。
 
 14:47:26
 地震発生から1分09秒後 14:47:27
 緊急地震速報が東京に地震が到達するのを知らせます。
 「後20秒で台場が震度3です」
 東京23区 1分03秒後
 「後10秒で震度3です」
 「もう揺れているぞ」
 東京が揺れ始めたのは地震発生後1分3秒のことでした。
 
 地震発生から2分01秒後 14:48:19
 東京も次第に揺れが激しくなっていきます。
 「速報、速報、速報」
 
 高架式軌道を走るゆりかごめ車内。
 「今、地震で、今、ゆりかごめがものすごく揺れています」
 乗客は声を発することも出来ず、息を呑んで耐えるしかありません。
 
 レインボーブリッジを渡っていた車の中では、
 「はっ、はっ、怖い!」
 「死にたくない」
 
 東京・渋谷区
 ただならぬ揺れに、渋谷駅前のコーヒーショップのでは客たちが避難を始めます。
 
 横浜市
 路面がめくれあがるほどの揺れに逃げ惑う横浜駅前の人々。
 
 国会では、参議院決算委員が開かれていました。
 「宮城県、震度7」
 「枝野、官邸戻る。急いで!SP、どこ?」
 「入り口、開けて下さい」
 管総理も災害対応の指揮を執るため、官邸へ向かいます。
 「総理、どうですか、この地震は」
 「総理、大丈夫ですか」
 
 14:50:53
 地震発生から4分35秒後、報道特別番組開始。
 「地震に関する情報をお伝えします」
 最初に報じられた大きなニュースは、フジテレビの近くで起きたビル火災でした。しかし、大地震の全容などまだまだ掴みきれません。
 
 千葉・浦安市
 そして、千葉県浦安市を中心に、広範囲に渡って不気味な現象が起きていました。液状化現象です。
  千葉・市川市
 震源から300キロ以上離れたこの場所でもライフラインが寸断されました。今回の地震は、全国の揺れが収まるまでに6分を要したことが今では明らかになっています。そしてこの間、日本列島にはあの大津波が迫っていました。
 
 3月11日 14:55 岩手・大船渡市
 これは、地震の直後、岩手県大船渡市で撮影された映像。足早に避難する人々が映し出されている。後に津波に襲われるJA大船渡前。時計の針は、2時55分を指していた。
 
 3月11日 15:10 岩手・大船渡港
 これは、その15分後の映像だ。3時10分。岸壁を水位がゆっくり上昇していく。今回、どこよりも早く津波が到達した大船渡。検潮所が観測した水位のグラフからは、3時10分から僅か数分で湾内の水位が急上昇したことが分かる。
 
 「おー!凄い音がしています。公園の中にも入ってきました。完全な津波、凄い津波です。かつて経験したことがないような大津波。もうコンテナが流されています。コンテナが流されています」
 
 そして、水位上昇から8分後、8メートルの波を観測した時点で計器は壊れていた。
 
 「あーっ!」
 「うう〜っ!」
 
 軽々と運ばれていく家屋。
 
 「うおーっ!」
 「お〜い、止めてくれ!止めてくれ!」
 
 大船渡の次に津波が到達したのは、岩手県釜石市。津波到達の4分後、海からおよそ300メートル離れた市役所前で撮影された映像を入手した。
 
 3月11日 15:25 岩手・釜石市
 道の奥にはすでに流された住宅。慌てて少し高台となる市役所の玄関方向へと移動するが、
 「やばいよ!」
 津波は猛スピードで街に侵入してくる。
 
 「逃げろ!」
 「おーい!逃げろ!」
 「早く上に上がれ」
 
 この間、わずか1分。その2分後、先ほどまで撮影していた市役所の玄関も瓦礫に埋まった。そして、津波は岩手県沿岸を北上していく。
 
 3月11日 15:26 岩手・宮古市
 釜石に遅れること5分。3時26分には宮古港で8.5メートルの最大波が到達。
 
 「車も電信柱も、建物も…」
 
 この後、一旦北上した津波は宮城へと南下を始める。宮城県最北端の街、気仙沼。
  3
 月11日 15:32 宮城・気仙沼市
 その食品工場で捉えた映像は3時32分と記録されている。
 「わぁーっ!」
 「あららーっ!」
 「船が道路に来てるもん」
 「これは我が家も消えたな」
 
 3月11日 15:33 宮城・南三陸町
 気仙沼のすぐ南に位置する南三陸町。3時33分に撮影された写真。町が壊滅していた。そして、次に巨大津波が襲ったのは、はるか南の町、福島県いわき市だった。
 
 3月11日 15:39 福島・いわき市
 いわき市の尾奈浜で最大波が観測されたのは、3時39分。何故、津波は突然南下したのか。東京大学地震研究所が作成した津波発生のシュミレーション画像。実は、今回の震源地が南北500キロメートルと非常に縦長なのだ。隆起した海面は、そのまま壁が移動するように東日本の沿岸部を同時に襲う。東に突き出た街ほど到達時間が早いのだ。そして、津波は仙台湾へと入っていった。
 
 3月11日 15:50 宮城・石巻市
 宮城県石巻市。撮影時間は、3時50分。地震発生から1時間以上が経過していたため、安心していた人も多かったかもしれない。この撮影時点で、水位は最大6メートルまで達した。
 これは、全国5、000個所で津波の痕跡を基に高さを計測したデータだ。今回、仙台湾内の多くの平野部で10メートル以上の水位に達する場所が多く見られた。リアス式海岸で津波が高くなることは知られているが、何故、平野部でも高くなったのか。そこには、あるメカニズムが。津波は、水深が浅くなると、速度が遅くなる性質を持つ。湾内に入った津波は減速、次に来る波がそれに追いつきより高さを増していくのだ。その瞬間をカメラが捉えていた。
 
 名取市沿岸部
 平野部で高さを増す津波。
 「大きな津波が2波、3波と迫って来ます」
 前の波に次の波が追いつくことで高さを増していく。
 「1波、2波、3波、4波、それ以上に大きく何度も波が押し寄せています」
 この波が陸に到達するとどうなるのか。
 
 福島・相馬市
 午後3時50分、最大波を観測した福島県相馬市。津波はすでに到達し、建物の1階部分は水没している。そこにすぐ後から第二波が第一波を覆うように到達、先ほどまで見えていた緑の屋根を完全に呑み込んでしまった。
 
 福島・南相馬市
 いくつかの波が重なることで巨大化する津波。その波しぶきは、手前に見える家屋の何倍にも達している。そして、仙台湾の最も奥に位置する仙台空港に津波が到達した。

 3月11日 15:50すぎ 宮城・仙台空港
 敷地内にある海上保安庁の航空基地では、
 「仙台基地は、今、津波に襲われています。空港は、もう使えません。車両が全部、滑走路の方に流れてきて、ヘリも全部流されています。ここも危ないですけど、逃げようがありませ」
 津波の被害は、地震発生から2時間近くが経っても全国に広がり続ける。だが、地元メディアも被災し、映像の伝達は困難だった。
 
 3月11日 20:34
 フジテレビのスタジオが大船渡の映像に息を呑んだのは、津波襲来の5時間後。
 「ここではですね、いくつかの集落が全滅したと、壊滅したとの情報も入ってきています」
 
 鉄道・道路交通網完全マヒ
 東京の帰宅困難者数 200万〜300万人
 そこにあった暮らしは、あっという間に消えていきました。同じ頃、東京では、
 「首都圏の鉄道は、JR、地下鉄、私鉄全て運転を見合わせております」
 誰も経験したことがない夜が、訪れようとしていました。
 
 この夜のことを多くの人々が、ブログや掲示板に綴り公開しています。もう一つの震災の記録です。
 「行き場もなく、寒い路上に溢れる人、人、人…」
 
 3月11日夜から翌朝 最低気温2.3℃(東京)
 
 「日が暮れるにつれ寒いこと、寒いこと…」
 「家内と不安な気持ちになりながらも近くに一人でいる女性に声掛けをして毛布を分け合ったりしながら、寒い夜を越す」
 
 相次ぐ余震
 「もう、日本沈没なのかもと頭によぎりましたよ」
 
 トンネル内で立ち往生した秋田新幹線
 全員救助まで約25時間
 
 「雪が降る夜は、何故か静かです。あの時の雪と暗闇と何とも言えない不安感は、忘れられません」
 
 「日本人には品格がなくなったと感じることも多いが、未曽有の災害を前にして、厳(おごそかさ)と誇り、そして思いやりを失わず、助け合う姿を知るにつれ、日本人の美徳が失われていないことを知った」
 
 「地震の夜、仙台の夜空は満天の星空でした。何でこんな日にとあの時は思ったけど、街中の灯りが全て消えたからこそ見えた星空。いつもは見えていないだけで空にはあの星が輝いているんですよね」
 
 仙台市若林区荒浜から2キロ付近
 「200体から300体って言っていましたよ…」
 「仙台市若林区荒浜で発見された水死体の数、200人から300人に上ることが分かりました」
 
 3月12日
 眠れぬ夜が明けた時、そこには信じられない光景が広がっていた。
 
 宮城・気仙沼市
 「この辺りは、集落、田んぼや畑があった場所だと聞いています。しかし、これはもう正に水の中といった状況です」
 浸水したのは、青森から千葉までの500平方キロメートル余り。東京23区の9割に当たる広さだった。
 
 宮城・南三陸町
 「橋が落ちています。高架がすっかり落ちています」
 
 仙台市
 建物は、基礎の部分だけが残っているだけ。もはや、人の気配を感じることが出来なかった。ところが、
 
 宮城・亘理町
 「今、人の姿が見えました。そして、何かを叫んだりしています。おそらく、一晩、ここで過ごしされた方々と思われます。」
 
 岩手・陸前高田市
 ほとんどの建物が倒壊した陸前高田市でも、
 「先ほど消防団の方が、生存者がいると言いながら走っていきました」
 
 無残に散らばった日用品を掻き分けたどり着いた先。ボロボロになった3階の屋上で、4人が津波と夜の寒さを耐えた。自衛隊2万人が現地入り。全国各地の消防や警察も応援に駆けつけた。
 
 仙台市
 「頑張って!頑張って!もう少しで助かりますからね」
 
 宮城・名取市
 次々と救出される人たち。語られたのは、生と死の狭間で見た壮絶な光景。
 
 宮城・東松島市
 「女房と子供と、手をつないだんですよ。そしたら津波が来て、手を握って土手まで逃げたんですけど、女房と子供は流されました」
 
 宮城・気仙沼市
 救出の最中、余震が断続的に続いた。
 
 (カメラマン)
 「揺れてる」
 (記者)
 「揺れました。揺れました」
 
 岩手・宮古市
 ウーッ!ウーッ!
 (記者)
 「津波?」
 前日からの大津波警報は出されたままだった。
 「高台へ避難してください」
 
 福島・南相馬市
 学校では、
 「恐いよ〜!」
 避難してきた人たちが恐怖に震えた。津波の情報が出るたびに救助活動が中断、思うように進まない。
 
 岩手・大船渡市
 一方で、逃げ遅れた人々たちの亡骸(なきがら)が発見されていった。あまりにも大き過ぎる被害。過酷な現場を目の当たりにした消防団。
 「どこから手をつけいていいか分からないですね」
 
 震災の翌日、死者行方不明者は1、300人余り。後に2万人を超える被害者の10分の一も明らかになっていなかった。そして、16万人が避難所で夜を過ごした。
 
 「今から、おにぎりを一人一個配ります」
 暖房も救援物資も満足に届かない中、食料を分け合い身を寄せ合った。
 
 3月13日 宮城石巻市
 翌13日の朝、まだ水が引いていないにもかかわらず、人々は町を歩き回っていた。連絡が取れなくなった家族の行方を探していたのだ。おばあさんは、孫の名前を紙に書いて歩いた。
 
 「娘です」
 Q:「どこにいらっしゃるでしょうかね」
 「分からないです」
 携帯電話の基地局は、津波や停電の影響でダウンし、衛星電話を掛けようと長い列が出来た。
 「おばあちゃん、亡くなった」
 
 宮城・南三陸町 志津川高校
 多くの避難所が、孤立していた。その内の一つは、南三陸町にあった。人口1万7千人の町が壊滅、この時1万人の安否が不明だった。助かった人々が歩き始めた。震災から2日経って、ようやく津波の警報が注意報に変わる。住民たちは、安全な場所や食料を求め、被災現場を脱出していた。津波が来るずっと以前に撮影された南三陸町の街並み。そこには、港町で暮らす人たちの日々の営みがあった。しかし、町に入って目にしたのは、大きく曲がった鉄鋼と泥にまみれた建物の残骸。人々が暮らした町が丸ごと亡くなっていた。
 
 「先生とか友達も流されたりした人がいて」
 「すごい勢いで流される人を見まして、大変でした。よく助かったと自分で思っています」
 
 岩手・宮古市
 復旧作業が、急ピッチで進められた。瓦礫に埋まっていた道路は少しずつ通れるようになり、人々は家族への元へと急いだ。
 
 宮城・山元町
 「わぁーっ!良かった!」
 「わーん、わーん!」
 「待ってたんだぞ、ずっと」
 
 家族との再会がある一方で、現場には遺体があることを示す記しが増えていった。
 
 「川代集落、36体。その上の石浜集落130体のご遺体が確認されている。必ず生存者がいるということで確実に確認をせよ」
 
 宮城・石巻市 石巻赤十字病院
 この日、石巻市で唯一残った石巻赤十字病院には1200人を超える救急患者が搬送され、廊下まで患者が溢れた。
 1000年に1度と言われる巨大地震と大津波に見舞われた日本。死者行方不明者2万人余り。その何倍もの人が、愛する家族を失い、築き上げてきた家や大切なものを失った。それでも、人々は生きた。
 
 ●原発クライシス88時間

 小倉昭(キャスター)
 「計り知れない被害をもたらした地震、そして津波。しかし、私たちは更なる危機に直面します。原発事故です。今なお、本当は何が起きているのか、何を信じればいいのか分からない、そんな怒りや不安を覚えている方がたくさんいらっしゃると思います。いったい何故そんなことになってしまったのでしょうか。震災以降最大の放射性物質が日本に舞った地震発生の88時間後、その88時間を検証すると今まで見えなかった原発事故の本質が見えてきました。
 88時間の間に撮影された3枚の写真。原発事故の知られざる裏側を映していた。
 
 3月11日 14:46 福島第一原発
 これは、地震発生時の東京電力福島第一原発の映像。この後、この辺りの震度は6強。激しく揺れた。
 
 3月11日 15:35
 その49分後、津波が原発を襲う瞬間を福島テレビのカメラが捉えている。岸壁に激突した津波が、まるで爆発でも起きたかのような巨大な水しぶきを上げる。その直後、悪夢は始まった。原子力発電所は、全電源喪失、SBO、ステーションブラックアウトという事態に陥った。それは、原子炉が冷却出来なくなったことを意味する。SBOの直後、第一原発非常災害対策室では、
 
 東京電力福島第一原発 広報部報道グループマネージャー
 声 角田桂一 氏
 「極めて重い事象になったなと。電源をとるためのバッテリーですとか、そういったものを集めろという指示が飛び交っていたような記憶があります。だから、あらゆる手段を使って電源を確保する」
 
 大熊町役場 職員
 まさに、非常事態。地元大熊町には、電源喪失からおよそ30分後にその事実が伝えられた。
 情報は、もちろん官邸にも伝わっていた。
 
 3月11日 16:54 首相官邸
 しかし、1時間後の総理の会見では、
 
 「一部の原子力発電所が自動停止いたしましたが、これまでのところ外部への放射性物質等の影響は確認をされておりません」
 
 電源喪失の事態は、国民に伝えられなかった。そのおよそ4時間後、原発内部ではこんな言葉が書きなぐられていた。制御室内のホワイトボード、21時51分。1号入域禁止。その横には10秒で0.8ミリシーベルトとは?これは、その場所に1日いるだけで100%死に至る高い放射線量だ。
 
 3月11日20:00頃
 実は、後の調査でこの頃すでに原子炉内の燃料棒が溶け落ちるメルトダウンが始まっていたことが明らかにされた。1号入域禁止となった同じ頃、政府は会見で、
 
 3月11日 21:52
 「福島の原子力発電所の件で、3キロ以内の皆さんに避難の指示。放射能は、現在、炉の外には漏れておりません」
 
 放射能漏れは、ない。そう、繰り返した。
 
 3月12日 5:44
 翌日、午前5時44分、政府は、避難指示を拡大。1号機のベントに伴い、放射性物質を含む蒸気が放出されるが、問題はないと強調した。
 
 「この管理された状況での放出ということについては、10キロ圏内に出ていただいているということは、これは正に万全を期すためでございますので」
 
 3月12日 6:00 双葉厚生病院
 ところが、避難拡大指示から16分後の午前6時、第一原発から4キロ離れた双葉厚生病院に異様な姿の集団が現れていた。
 
 「放射能が漏れているとか漏れるとかということで、ここにいると危ないから逃げろというふうなことでしたね」
 
 彼らは、防護服を身に纏った警察官だった。避難指示のかなり前から、その準備は進められていたのだ。
 
 「もう、ガスマスクもやっている、防護服も着ている。初日からってことはそれだけ汚染が広がっているんではないかという、逆にその人たちが普通の格好でやっていればまた我々も安心出来たんですけども」
 
 3月12日 6:00 大熊町
 同じ頃、大熊町では住民が避難を開始したが、迎いに来たバスの車体には何故か茨城交通の文字。
 大熊町役場 生活環境課 課長補佐
 竹内佳之さん
 「何で茨城交通がここさ朝早く来なきゃならないの。だから、前の日から手配していた」
 
 大熊町役場 生活環境課 課長
 石田 仁さん
 「午前3時前には着いていたそうですよ。私は知らなかった」
 
 大熊町からおよそ140キロも離れた茨城交通は、何故12日の早朝にあの場所にいられたのか。手配したのは、町ではなかった。では、いったい誰が。
 
 3月12日 6:00 福島・大熊町
 3月12日 午前6:00、福島・大熊町から避難する人たちを待っていたのは、何故か茨城交通のバス。手配したのは、
 
 茨城交通梶@運輸部長
 火口内 宏一さん
 「国土交通省の方から電話がありまして、福島の第一原発付近の住民の避難の輸送をしてもらえないかと電話があったんですよ。夕方7時位だったと記憶しているんですけど」
 
 連絡が入ったのは、3月11日の夜7時だったという。しかし、その3時間後の会見で、
 
 3月11日 21:52
 「放射能は、現在、炉の外には漏れておりません」
 
 政府は、放射能漏れはないと繰り返していた会見の3時間前に避難するためのバスを手配していたことになる。そして、午後11時から合計49台のバスが茨城を出発。バスが到着した時、避難先は決まっていなかった。
 
 茨城交通梶@運転士
 伊藤 文雄さん
 「どこに行けばいいんですかと訊ねたところ、とにかく西の方へ行ってくれと」
 
 とにかく西へ。避難は、続いた。
 
 3月12日 7:30 福島・富岡町
 はるか遠くまで永遠と続く車の列。富岡町では、隣町へ続く道路に避難する事が集中し30分の距離に3時間以上掛かったという。子供の手を握り避難を急いだ女性は、
 
 富岡町から避難した住民
 「やっぱり焦りますよ、みんな。放射能漏れとなったら」
 
 3月12日 15:10 双葉厚生病院
 午後3時10分、あの双葉厚生病院では、まだ入院患者の避難が続いていた。シーツの四隅を持ち、患者を避難させる職員たち。地面に直接敷かれた布団に横たわったままの人たちも見える。この修羅場のような光景を更なる悪夢が襲う。
 
 15:36 1号機 水素爆発
 
 双葉厚生病院 薬剤師
 杉内 敏行さん
 「外で運んでいる最中に、ほとんどの人が爆発を受けたんですね。全身に爆風がボンッと当たって、爆風が来たということは、放射能も一緒に来たよねって形で」
 
 双葉厚生病院 看護部長
 西山幸江さん
 「あぁ、間に合わなかったっていうことの悔しさ、残念感、被爆したんだなって」
 
 3月13日 震災3日目
 11:02
 「(3号機について)9時20分に格納容器の方の、いわゆるベントの開始を致しまして、この結果として原子炉格納容器の冷却が開始されていると思われます」
 
 翌日、政府はまだ原子炉冷却の明るい見通しを語っている。しかし、この2時間半後、
 
 3月13日 13:30
 宇都宮から3台のトラックが福島へ向け出発した。荷台に積まれたのは、大量の氷。搬入した製氷業者には、今もその時の発注書が残っていた。発注元は、東京電力。
 
 宇都宮製氷冷蔵梶@営業部長
 井田 滋さん
 「出来るだけ欲しいと、たくさん欲しいんだと。どこへ持っていくんだと。すると、福島へ持っていきたいと」
 氷の塊300本。およそ40トンを福島へと運んだ。いったい、何に使われたのか。その日、原発内にいた東京電力社員は、
 
 東京電力福島第一原発 広報部報道グループマネージャー
 声 角田桂一 氏
 「発注した事実を私は知らなかったですね」
 Q:「何に使ったんでしょうか?」
 「分からないですね」
 
 氷を運んだ水道業者の作業員が、現場で聞いたその使い道は、
 
 宇都宮製氷冷蔵轄H場長
 早乙女 章さん
 「ヘリコプターで輸送して原発を冷やすんだっていう話は聞きました」
 
 だが、3月14日震災4日目、
 11:01 3号機 水素爆発
 
 東京電力会見
 「いいんですか。今、現場からの情報なんですけど、2回目の爆発がありました。たぶん、水素爆発ではないかと思われます」
 
 3月15日 震災5日目 
 5:45 東京電力本社
 そして、その時は訪れる。早朝、菅総理が東電本社へと向かったその30分後、2号機で、6時10分、爆発音を確認。震災発生から88時間後の事だった。
 
 3月15日 6:42
 枝野 幸男 官房長官
 「格納容器に繋がるサプレッションプールと称する水蒸気を水に変える部分、この部分に欠損が見られると」
 
 ただの爆発ではない。格納容器自体の損傷は放射性物質を大量に含んだ蒸気が直接大気にばらまかれる危険性があった。
 
 3月15日 9:00 東京電力 会見
 (記者)
 「大変、危険な状況ではないですか?」
 「おっしゃる通りです。危険な状況が続いていて…」
 
 3月15日 9:00 福島第一原発 正門付近
 およそ3時間後、第一原発正門付近で、11,930マイクロシーベルトを観測、それまでで最悪の放射線量だった。爆発音の後に最低限の人員を残し、作業員を避難させたことも今では明らかになっている。これほど重大だった2号機の格納容器損傷。
 
 3月15日 11:01
 しかし、この期に及んでも政府はその危険性について言及することはなかった。
 (記者)
 「総理、すいません。」
 「2号機はもっと深刻な事態なんじゃないでしょうか?」
 菅直人首相
 「今、申し上げたように、何号機ということ等について、いろんな現象がありますので全体をみて…」
 
 原発が最大の危機を迎えるまでの88時間、それは現実に起きていることと政府の発表とのズレが限界まで広がり続けた時間だった。そして、残されたもの、
 
 浪江町 馬場 有 町長
 「私も最後に町を自分の車で見ながら避難所に向かったんですが、ゴーストタウンなんですね…」
 
 あれから5ヵ月…
 
 福島・浪江町
 家に入る道が、草に埋もれていた。人通りが途絶えた道で、残された命が消えていく。立ち入りが制限されたその先に、特別な許可を得て入った。
 
 文科省による放射線測定。
 「振り切れている?」
 「振り切れてますね」
 「35マイクロシーベルト/h」
 「35!」
 計測器の針が振り切れる。
 人が住むにはあまりにも高い線量…
 
 福島・飯館村
 「誰もいねぇ、ここもいねぇ…」
 人影の消えた村の中をパトカーだけが走っていく。首輪を付けた犬が、じゃれついて離れない。
 
 福島市
 ブルーシートで覆われていたのは、小学校。校庭の表土を削る作業が続く。子供たちの通学路。放射線量の高い側溝を掃除したが、ゴミの行き場がなかなか定まらない。
 
 福島・南相馬市
 「放射能に負けないで虫たちが生きていてよかったです」
 「みんなは一生懸命頑張っています」
 放射能と闘いながら、この子供たちが未来を担っていく。
 
 ●復興へ…ニッポン人の力
 
 地震、津波、そして原発事故。未曽有の災害に見舞われながらも多くの日本人は、つとめて冷静でした。改めて日本人の強さを知ることになった今回の大震災。復興は、決して簡単なたやすいことではありません。それでも、少しずつ前を向き始めた被災地の155日間です。
 
 震災後、被災地に駆けつけた無数の日本人。組織や会社の垣根を超えたその力は、時に奇跡的な復旧をもたらした。
 震災49日目、東北新幹線復旧。それは、鉄道マン3千人の総力戦だった。
 
 3月11日 東北新幹線「はやて」車内
 3月11日の震災で全線不通となった東北新幹線。
 「線路の送電線を支える柱が、あのように完全に折れ曲がってしまっているんですよ。根元からいっちゃって(折れ曲がって)ますね」
 日本が誇る高速鉄道は、史上最悪の被害に見舞われた。
 損傷箇所は、実に全長536キロ。被害の全容も過去の震災とは桁違いだった。予震によって加わったものも合わせると、損傷箇所の数は1700人にも上った。
 
 JR東日本
 宮下 直人 常務取締役
 「現段階では、見通し全くたっていません。いつ開業するとうものは出てございません」
 
 場所毎に異なる被害状況。補修方法が正しいのかどうか現場で迷っていては、時間がいくらあっても足りない。東京の対策本部は、東北各地の現場とホットラインをつないだ。
 
 東京 JR東日本本社
 電気ネットワーク部
 西脇 篤課長
 「このような復旧を現場がしたいんだけど、これで技術的に大丈夫なのかどうか本社の技術者に送ると、この方法でいいのかどうかその判断をしてもらう」
 
 道しるべとなったのが、今回メディア初公開となる新潟県中越地震の復旧記録誌だった。状況に応じた復旧法やその所要日数を参考に本社の技術者が適切かどうかを判断、その日の内に最前線へと伝えた。東北には、全国から新幹線工事のスペシャリスト3000人が集結していた。支援を申し出た企業・団体は150社以上。駆けつけた男たちの中には、阪神淡路や中越の復旧経験者も少なくなかった。その知恵と技術を賭けた鉄道マンたちの総力戦。
 
 4月29日 仙台駅
 そして、地震から49日後、東北新幹線全線復旧。それは、阪神淡路、新潟県中越地震を上回る過去最速の新幹線復旧だった。以来、東北新幹線は全国と被災地をつなぐ大動脈として、復興を下支えしている。
 
 そしてこの夏、新幹線のホームはいつもの風景を取り戻したかのように見えます。何度見ても信じられなかったあの光景は、5ヶ月経った今、
 
 瓦礫が取り除かれた後そこに現れたのは寂し過ぎる風景でした。一瞬にして消えてしまった故郷。線路毎流されたローカル線は、復旧の目処さえ立っていません。
 夏になると、駅の周りには青々とした稲の絨毯が広がっていました。そこにあったはずの風景は水に浸かったままです。
 
 3月13日 宮城・東松島市
 ここで暮らしてきた平地さんの自宅もあの日津波に襲われ水びだしになりました。
 
 平地富夫さん(61)
 「悔しい。涙が出てきた…」
 
 あれから5カ月、平地さんは同じ家に住み続けることを決意し、200万円かけて家をリフォームしました。
 
 平地富夫さん(61)
 「家を直してもいつまた津波が来るかも分からないし。そんなこと考えたら生活は出来ない。どうしてもここに住みたい」
 
 あの故郷を取り戻したい。それはまだまだ先のことかもしれません。それでも被災地で人々は生きています。
 
 3月12日
 「女房と子供と手をつないだんですよ。そしたら津波が来て、手を握って土手まで逃げたんですけど」
 
 津波で家族を失った人たち。あの日止まった“時”は…
 
 「女房と子供と手をつないだんですよ。そしたら津波が来て、手を握って土手まで逃げたんですけど、女房と子供は流されました。私も流されたんですけど」
 
 津波の翌朝に出会った齋藤重憲(42)さん。宮城県東松島市に住んでいました。あれから5カ月、建設会社の仕事を再開し日常生活が戻りつつあります。体重は6キロ減りました。妻と息子は津波に呑まれ帰らぬ人となりました。自宅は全壊し、残された二人の娘と共に実家に身を寄せています。
 この日は、妻の39回目の誕生日。
 「お母さん、お誕生日おめでとう」
 16歳と14歳、年頃の娘と父親の関係は少しぎこちないもの。取りもってくれたのが、妻でした。娘たちもさまざまな想いを抱え日々を過ごしています。
 
 妹 優華さん(14)
 「今になるといろんなものを失って、津波が来た時よりちょっと苦しくなってきて」
 
 姉 綾華さん(16)
 「いつまでも引きずっちゃダメだと思うから。前を向かなきゃダメだから」
 
 この土手で妻と息子は流されました。
 「女房も息子も(津波に)呑まれる瞬間の声と姿は忘れられないですね」
 
 自宅跡からビデオテープが見つかりました。若き日の妻と幼い息子が映っていました。そして、7年前の妻の誕生日の映像もありました。
 「お誕生日、おめでとうって」
 「お誕生日、おめでとうございます!」
 「ありがとうございます」
 「はい、消して下さい」
 
 どんなに悲しんでも、戻ってこない日々。この現実と5ヵ月向き合ってきました。
 
 8月1日 宮城・石巻市
 今月1日、齋藤さん親子は花火を見に行きました。海や川で亡くなった人を追悼する伝統の花火大会です。毎年、子供たちを花火に連れてくるのは妻でした。娘と花火を見るのは初めてです。震災で多くの命が失われた水で弔いの花火が打ち上げられました。
 
 「何回か、妻と子供の元にね、行こうかと考ましたけどね。結局、ずっと止まっていられないので、3入で生きていくべって約束しました」
 
 あの日止まって時計の針が少しずつ動き始めました。
 
 宮城・名取市 ゆりあげ小学校

 安藤優子(キャスター)
 3月11日、午後2時49分、地震の直接に針を止めてしまった時計。今、私は宮城県名取市にあるゆりあげ小学校の体育館に来ています。現在8月12日、午後10時44分を回ったところですから、あの日からちょうど155日と8時間が経とうとしています。こちらの体育館には津波で流された瓦礫の中から見つかった写真ですとかお位牌、細々とした表状などの思い出の品々が集められています。震災の当初は、毎日100人以上の方が訪れていたということですが、5カ月経った今は、随分と訪れる方も少なくなったということです。そして、こちらには泥を被ったままのランドセルが100個以上保管されたままになっています。このようにですね、ランドセルには名札が着いているものもありまして取りに来ようと思えば、もしくは取りに来さえすれば取りに来られれば直ぐにでも持ち主の元に返せる思い出の品です。では何故、取りに来ない、もしくは来られないのでしょうか。そこには様々な事情があると思いますが、もしかしたらこの持ち主たちは新しいランドセルをすでに買い揃えて新しい生活に一歩足を踏み出しているのかもしれません。ですから、ここに残されたランドセルというのは、もしかしたら新しい一歩を踏み出した証なのかもしれないのです。今回、この場所を訪れて改めて感じることはこういった場所に来る人、来ない人あるいは来ないと決めた人、一口に被災者と言っても抱える現実は実に様々だということです。震災から155日、今の私たちに出来ることは時につれてこのように変化している被災地の現実から決して目をそらしてはいけないということ。そしてもう一つは、先ほどご覧いただいたあの時を止めてしまった時計、あの時計のように私たち自身が時計を止めることを決してしてはならないということである。
 
 小倉智昭(キャスター)
 あの震災から155日、私たち日本人はこれからどう歩んでいけばいいのでしょうか。もしかすると、震災に遭遇した私たちは一つの宿命を背負ったのかもしれません。この震災を決して忘れず伝え続けていくことです。そしてもう一つ、私たちには忘れてはならないことがあります。はるか昔から、我が国日本は数々の災害に見舞われてきました。しかし、その度に必ず立ち上がってきたこと。

 宮城・塩釜市
 2011年3月11日生まれ 大久保 真弥ちゃん
 8ヵ月
 あの日生まれた命、新たな時を刻んで生きていました。私たちは、未来を託すことが出来ます。忘れないという想いと共に。  

掲載
2011年9月11日
(東日本大震災より6ヵ月)

 
 

 




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